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NCAA1部ハワイ大で劇的な決勝FGを決めた日本人キッカー松澤寛政の挑戦

Stephen Noh

石山修二 Shuji Ishiyama

NCAA1部ハワイ大で劇的な決勝FGを決めた日本人キッカー松澤寛政の挑戦 image

ハワイ大で決勝フィールドゴールを決めるまでの松澤寛政は、日本でその人生を見失いそうになっていた。

ハワイ大がスタンフォード大を23-20の劇的な勝利で下した第0週の試合の主役は、子供の頃プロサッカー選手になる夢を抱いていた。千葉県の幕張総合高校サッカー部では主将を務めていた。しかし大学レベルには届かず、入学試験にも落ちた。松澤はサッカーの道は閉ざされたとすぐに悟った。

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「サッカーをやめた後はやることが何もありませんでした。自分の人生が嫌になっていました」と松澤は『スポーティング・ニュース』(SN)の取材で語った。

父親の勧めで、松澤は答えを求めて19歳でアメリカへ旅立った。何を探しているのかははっきりとは分からなかったが、この旅が人生の転機になることを願っていた。

当時の松澤は英語が話せなかったため、アメリカでの移動は困難を極めた。数週間かけてカリフォルニアの海岸線をさまよった。サンフランシスコ滞在中、レイダース対ラムズのシーズン開幕戦を観戦することに決めた。日本にいた頃に何度かスーパーボウルを観たことはあったが、彼のフットボール知識はそれくらいだった。

初めて生で観たNFLの試合で、オークランド・コロシアムの54,000人の観衆がプレイごとに沸き立つ声を聞いた。そして観衆の中を駆け巡る感情に衝撃を受けた。

「日本でそんな感覚は味わったことがなかったです」と彼は語った。

日本に帰国した松澤は、アメリカンフットボールへの新たな情熱を抱いていた。そして数か月後、彼は決断した。

「人生をリセットしたい」と彼は自分に言い聞かせた。「最初の20年は終わった。これからが次の20年だ。何か偉大なことを成し遂げたい」

松澤はアメリカンフットボールのことはほとんど知らなかった。英語も話せなかった。20歳で初めてボールを買うまで、その楕円のボールに触れたことさえなかった。それでも彼はNFLのキッカーとなるという決意を固めた。

ただ一つ問題があった。日本ではアメリカンフットボールのキッカーについて教えてくれる人が誰もいなかった。だから彼はYouTubeを駆使して独学で習得した。

松澤はプロのキッカーたちの動画を研究し始め、生まれ持ったパワーに滑らかなストライドを組み合わせた。自分のX(旧Twitter)アカウントに動画を投稿し、アメリカの誰かがそれを見てチャンスを与えてくれることを願った。

その間、日本でモートンズ・ザ・ステーキハウスで働き始め、週5日働きながら留学資金をできるだけ貯めようとした。友人や両親には数ヶ月間、目標を秘密にしていた。笑われるのが怖かったからだ。仕事の合間やトレーニングの合間に、連絡先を入手できた大学のコーチに自分の動画を送り続けた。

ステーキを焼く仕事とサッカー場でのキック練習を2年間続けた末、ようやくある学校が松澤にチャンスを与えた。

Kansei Matsuzawa

オハイオで始まった松澤の挑戦

オハイオ州ネルソンビルの世帯年収の中央値は年間2万1000ドル(1ドル146円換算で約306万6000円、以下同)に満たない。崩れかけた家に不法占拠者が住み着いたり、水道のない生活を送る住民がいるのも珍しくない。この地域で最も有名なのはロッキー・ブーツの工場だろう。

松澤はこの街に2021年、ホッキング大学のフットボールチームでプレーする機会を得てやってきた。当時、同校のフットボール・プログラムはあまりに無名で、地域住民ですらほとんどがその存在を知らなかった。彼らは地元の高校で練習や試合をしていた。2016年に新設されたプログラムで、これまでディビジョン1部の大学へ移籍した選手は1人しかいなかった。

「本当に静かでした」と松澤はネルソンビルを振り返る。

「着いた時は『ほんとに何もないところだ』と思いました」

松澤がキッキング・コーチのケビン・コックスに定型のメールを送ったところ、チームから加入を打診された。

「彼にとっては信念に基づく決断だった」と元ホッキング大フットボールのヘッドコーチのテッド・エッガーはSNに語った。

「我々は奨学金を提供していなかった。彼は自費でここまでやって来たんだ」

松澤はカリフォルニアの学校からも数件のオファーを受けていたという。だが、あえて自らに試練を課し、厳しいチョイスをした。

「何よりまず男になる必要がありました」と彼は語る。

「だから最も過酷な環境に身を置きました。それが大人になる手助けになると感じたからです」

松澤は日本にいた時にYouTubで英語を勉強していた。だがアメリカに着くと、周りが何と言っているのか全くわからなかった。最初の三ヶ月間、彼はシンプルにイエスかノーでしか答えることができなかった。

寮の部屋にはテレビすらなく、英語の番組を見ることもできなかった。代わりに、コーチやチームメイトとの断片的な会話から英語を学んだ。チームの資料で知らない単語を見つけると、書き留めて後でネットで調べた。

松澤は朝5時に起きてトレーニングし、授業を全てこなし、練習に励み、夜遅くに寝るという忙しい毎日を送った。ステーキハウスで貯めた資金は最大限に活用しようと、無駄遣いは一切せず、できる限り節約した。街まで散髪に行く代わりに、YouTubeで自分で髪を切る方法を調べた。

「最初はひどいものでした。ホッキングに誰もいなかったのはむしろ良かったです。誰にも見られなかったので」と彼は笑った。

「けど気にしてませんでした。また生えてきますしね。次は少し気をつけたら、『ああ、今回の方がいいね』と思えるようになって、毎回少しずつ上達していきました」

松澤は一学期早く卒業できるよう、追加のクラスを取った。成績を上げ、英語ではひたすら頑張ってAを取った。ハイライト動画をHudlにアップロードしたが、再生回数は一桁に留まった。救いの手を求めて、知り得る全てのコーチにメッセージを送った。

すると、ついにクリス・セイラーから返事が来た。セイラーは数百人のキッカーやパンターを大学チームに送り込んできたキッキング・コーチだ。松澤は自身の状況を説明し支援を求めるメールを彼に送っていた。セイラーはラスベガスで開催される全米規模のショウケース・イベントへの参加を提案した。

松澤の資金はすでに底をつきかけていて、キャンプの参加費用を支払うのも不安だった。しかしセイラーは松澤に何かを見出し、登録料の値引きを申し出た。松澤はトップクラスの選手たちと競えるかどうかを確かめるべく、飛行機で現地へ向かった。

ショウケースには毎年400人から500人ほどのプレイヤーが集まった。そのうちの約95パーセントは高校生の子供たちで、何年も前からこの旅行を計画していた。彼らは親を連れて参加した。松澤は彼らより年上で、一人で参加し、まだ英語に手こずっている状態だった

「年を取ってたのが恥ずかしかったですね。周りよりずっと年上でしたから」と松澤はその時のことを振り返る。

「キックを始めたばかりで、英語も話せない。それがハンデでした。でも『このグループの中で一番のキッカーだ』という気持ちはありました。常に自分を信じていました」

「彼は確かに突出していた」とセイラーは回想する。

「彼はプレーできる力を証明してみせた」

松澤には天賦の才能があった。セイラーは彼をエリート・プログラムに招いた。そこには精鋭中の精鋭が集まっていた。互いに応援し合い、支え合い、助言し合うアスリートたちの仲間入りを果たした松澤は瞬く間にセイラーのキッカー・ランキングを駆け上がり、トップ10入りを果たした。

セイラーのリストは大学コーチたちの注目を集め、ホッキング大も成長を続けていた。エッガーはプログラムを立て直し、何人かの生徒たちをディビジョン1部の大学へ送り出し、チームもディビジョン3部のジュニアカレッジで全国4位にまでランクを上げていた。だが松澤へのオファーは依然としてなく、可能な限りのキッキング・イベントに参加することで貯金は急速に減っていた。

「彼の気持ちは固まっていた」とエッガーは振り返る。

「15回はキャンプに参加したに違いない。本当に必死に頑張っていた」

預金残高がゼロに近づくにつれ、ついに彼は両親に状況を打ち明けた。両親は彼の夢を支持し、支援するためこれまでの家を出てより安い家に引っ越した。準学士号を取得してもオファーが来ないまま、彼は次の機会を待つため日本へ帰国した。

Kansei Matsuzawa

松澤に舞い込んだハワイ大からの誘い

2023年の初め、ハワイ大のスペシャルチーム・コーディネーター、トーマス・シェフィールドはロスターにキッカーをもう一人追加する必要があった。奨学金ではなく、優先的ウォークオン枠を受け入れる意思のある選手だ。

シェフィールドはセイラーが作成した有望キッカーのリストを開き、日本出身と記載された選手を見つけるまで目を通した。あまり期待はしていなかった。海外出身のキッカーなど聞いたことがなかったからだ。だがホノルルは本土の大学より近かった。

「リクルートするのに有利に働くかもしれない」と彼は考えた。

シェフィールドは松澤のプロフィールを読み始めると、ますます興味をそそられた。松澤のキックの映像も見た。中にはゴールポストもない無造作なフィールドで撮影されたものもあったが、松澤が上手にボールを蹴り込んでいるのは分かった。

「体格もパワーもあるし、このレベルでキックする正確さも持っていた」とシェフィールドは言う。

シェフィールドは松澤に電話をかけ、彼の人生の物語を聞いた。夢を叶えるため何年も貯金し、独学で英語を学び、たった一度のチャンスを最大限に活かすためオハイオ州の田舎で暮らしていたという話から、彼は何よりも不屈の精神を感じ取った。

「正直なところ、最初に話した時から彼のことが気に入っていた」

シェフィールドは松澤に優先的ウォークオン枠を提示した。だが、その頃にはオーバーン大学、ネバダ大学、ミシシッピ大学も松澤に関心を示し始めていた。

「激しい競争だった」とシェフィールドは振り返る。

最終的に松澤を納得させたのは、彼が大学のために何をすべきかではなく、大学が彼のために何をするかという点に着目したシェフィールドの売り込みだった。

(コーチとの素晴らしい会話の後、ハワイ大でのPWO(優先的ウォークオン枠)を手にできて最高に興奮している!!)

松澤のディビジョン1部校への移行は一筋縄にはいかなかった。当初は大学の練習のペースに苦戦し、キックの精度も不安定になってしまった。ボールの軌道を見ようと頭を早く上げすぎるという技術的な問題もあった。ヴァンダービルト大との初戦の前、シェフィールドは彼を三番手のキッカーにし、遠征に同行させないことを伝えた。

「打ちのめされていたね」とシェフィールドは振り返る。

「だが遠征から戻ると、まるで別人のようだった。自ら進んで困難に立ち向かい、『三番手キッカーで終わるわけにはいかない』と言ってのけた。その後は二番手キッカーに昇格して残りの遠征全てに同行した」

松澤のハワイでの生活は質素そのものだった。ベッドにはフレームがなく、テレビは床に置かれていた。試合に出場しないときでも朝5時に起きてトレーニングを始めた。1年目はベンチから観戦するしかなかった。シーズン最大のハイライトはハワイ大の最終戦だった。キッカーのマット・シップリーが52ヤードのフィールドゴールを決め、コロラド州立大学を破った時だった。

「試合終了から10分も経たないうちに、彼は『コーチ・シェフ、次は自分が試合を決めるキックを成功させます。それが僕の目標です』と言ったんだ」とシェフィールドは振り返る。

松澤はホッキング大時代に50ヤードの劇的な決勝キックを決めたことがあった。だが、2024年のハワイ大学では正キッカーとしての機会は訪れなかった。それでも16本のキック機会中12本を成功させ、シーズン終了後にヘッドコーチのティミー・チャンとの面談のチャンスを得た。そこでチャンは松澤に学費の心配はもういらないと伝えた。松澤は奨学金を獲得し、二人が抱き合った時、感情が込み上げてきた松澤は涙を流した。

喜びの涙はさらに続いた。開幕戦でハワイ大はスタンフォード大と対戦し、CBSで全米中継された。ハワイ大レインボー・ウォリアーズは2019年以降、パワー4(ACC、ビッグ10、ビッグ12、SEC)のチームに勝利したことがなかった。そんな強豪校と接戦を繰り広げる中、松澤はフィールドゴールを2本中2本成功、エクストラポイントを2本決めていた。

そして20-20の同点で残り時間残り3秒という場面で松澤にチャンスが巡ってきた。

スタンフォード大は彼を動揺させようとタイムアウトを取る。松澤はその時間をメンタルトレーニングにあてた。そして38ヤード地点の右ハッシュマークにラインアップすると、力強いキックを放ったままうつむいていた。彼が頭を上げた瞬間、ボールはゴールポストの真ん中を真っ直ぐに飛んでいき、タイムアップと同時にチームに勝利をもたらした。

シェフィールドは真っ先に駆け寄ると、松澤をギュッと抱きしめた。

「ひどく泣いてしまった」とシェフィールドは言う。

「感情が抑えきれなくて。落ち着くまで30分もかかった」

「彼の家族が犠牲にしてきたもの、数年前のシーズン中に彼の母親が癌になったことを考えると、彼らがここにいるのは最高だ。言い続けていたよ、『君の両親がここにいる』ってね」

松澤はシェフィールドの抱擁に応えた。チームメイトが彼を取り囲む。彼は両親を見上げて微笑んだ。一週間後、彼は自身の歩みを振り返った。

「20歳の時、自分はNFL選手になると決めました。今までで一番クレイジーな目標でした。でも自分を疑ったことは一度もありません。あの日からずっと、自分はNFL選手になれると思っています。最初の練習でキックした時は最悪でした。それでも自分は偉大な選手になれると信じていました。自分に集中して『お前ならできる』と言い聞かせてきたんです」

原文:Meet Kansei Matsuzawa, Hawaii's kicker from Japan who learned to kick from YouTube
翻訳・編集:石山修二(スポーティングニュース日本版編集部)

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Stephen Noh

Stephen Noh started writing about the NBA as one of the first members of The Athletic in 2016. He covered the Chicago Bulls, both through big outlets and independent newsletters, for six years before joining The Sporting News in 2022. Stephen is also an avid poker player and wrote for PokerNews while covering the World Series of Poker from 2006-2008.

石山修二 Shuji Ishiyama

スポーティングニュース日本版アシスタントエディター。生まれも育ちも東京。幼い頃、王貞治に魅せられたのがスポーツに興味を持ったきっかけ。大学在学時に交換留学でアメリカ生活を経験し、すっかりフットボールファンに。大学卒業後、アメリカンフットボール専門誌で企画立案・取材・執筆・撮影・編集・広告営業まで多方面に携わり、最終的には副編集長を務めた。98年長野五輪でボランティア参加。以降は、PR会社勤務・フリーランスとして外資系企業を中心に企業や団体のPR活動をサポートする一方で、現職を含めたライティングも継続中。学生時代の運動経験は弓道。現在は趣味のランニングで1シーズンに数度フルマラソンに出場し、サブ4達成。