■別府羽室台高から3位指名を受けロッテに入団
身体能力を高く評価されての上位指名だった。ロッテでチーフ打撃コーチ兼走塁コーチを務めた大塚明氏は今オフ、32年間所属したチームを退団。入団後初めて球界を離れ、来年は外からプロ野球を見守る。新たな一歩を踏み出した50歳。人生の節目を迎え、ロッテ一筋だったプロ野球人生のスタートとなった1993年のドラフトを振り返った。
大分の別府羽室台高でエース兼外野手だった大塚氏には、NPBの全12球団から調査書が届いていたという。1989年の選抜甲子園に出場した同校だが、大塚氏が在籍期間中の1991~1993年は「ほとんど1、2回戦で負けているようなチームでした」と回顧する。中央球界では無名に近い存在だったのだ。
公式戦で目立った成績が残せなかった理由を「僕のワンマンチームだったから」と説明。「僕が下手くそでした。球が速いだけで大変コントロールが悪くて、チーム成績が悪かったんです」と続けた。
そんな中でプロのスカウトに注目されたのは「吉武と城島が近くの高校にいたからです」。同学年の吉武真太郎(ダイエー4位)は同じ大分県の国東高でエースとして活躍。翌年のドラフトでダイエーから1位指名を受ける1学年下の城島健司が同地区の別府大学附属高(現・明豊高)にいたことで「プロのスカウトの目に留まりやすい環境だったので、拾ってもらえました」と謙遜気味に振り返った。
迎えたドラフト会議。内野手での獲得を希望していたロッテから3位指名を受けた。
「僕は投手兼外野手。内野はやったことがないし、送球に自信があるわけでもない。細かい動きもできない。同学年の内野手には、松井稼頭央や金子誠のような一線級の選手がいて、よーいどんでスタートして勝てるわけがない。だからロッテはお断りしていたんですけど、ふたを開けてみたらロッテでした」
■「そうそうたるメンバーが残っていた」
その時点で、後にMLBでも活躍した松井稼頭央(西武3位)、アテネ五輪日本代表で21年間の現役生活を送った金子誠(日本ハム3位)、通算2000安打の福浦和也(ロッテ7位)らが残っている状況。ウエーバー順の関係で先に指名を受ける形となり「そうそうたるメンバーが残っていた。僕みたいな実績の選手が先なんて、彼らに本当に申し訳ない」と当時を思い起こした。
もちろん、素材を評価されての指名であったことは間違いない。「僕のフィジカルが高く評価されたんだと思います」。身長184センチの大型内野手としてプロの第一歩を踏み出した。
1年目は主に遊撃手として2軍戦に出場したが、入団前の不安が的中。三塁手での1個を含む34個の失策を記録した。遊撃手のシーズン33失策は91年以降では2軍のワースト記録。猛練習で右肩を痛めてしまうなど苦難の船出だった。
4年目の1997年に外野手に転向したことが契機となり1軍デビュー。1軍定着後は左腕キラーとして活躍し、終盤の守備固めで重宝されるなどチームに欠かせない存在だった。最終的にはコーチ兼任時代を含めて17年間プレー。下積みは長かったものの、他のドラフト同期にも負けない濃厚な現役生活だった。
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