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困惑した突然のロッテ指名「情報が全くなかった」 ドラ1右腕が語る“入団拒否”の舞台裏

Senior Editor
困惑した突然のロッテ指名「情報が全くなかった」 ドラ1右腕が語る“入団拒否”の舞台裏 image

Jiji Press

ドラフト1位指名を受けて会見する大嶺祐太

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■大嶺祐太氏、2006年の高校生ドラフトを振り返る

ロッテと中日で16年間プレーした大嶺祐太投手は、2022年に現役を引退。その後は球界を離れ、東京都内で飲食店を経営するなどさまざまな事業に携わっている。「現役時代よりも今の方が充実している」という大嶺氏が1位指名を受けたのは2006年の高校生ドラフト。ただ、入団に至るまでは紆余曲折があった。

八重山商工で3年生時の2006年に春夏連続で甲子園に出場。離島のエースは夏には最速151キロを計測し、堂々のドラフト1位候補になっていた。当時は高校生と大学生・社会人の分離開催。9月25日に開催された高校生ドラフトでは1位でソフトバンクとロッテが競合し、ロッテが交渉権を獲得した。

当時のことは今でも鮮明に覚えている。「正直なところ、ロッテに行くという決断は最後まで僕の中ではなかったです。あの時は1年間、浪人するつもりでいました」。入団拒否の姿勢を示したのである。

故郷の石垣島から最も近い福岡に本拠地があるソフトバンクと相思相愛の状況。単独指名の可能性が高いと思われていた中、ロッテは当時のボビー・バレンタイン監督が映像を見てほれ込み、直前で“争奪戦”に参戦したのである。

当時はまだ現在ほどインターネットが普及してない状況で、日本最南端の高校には届いていない情報も多かった。「ロッテから指名されるかもしれないという情報が、僕の中に全く入ってなかったんです。情報が入っていれば、構えることができるんですけど、全く情報がない状況だったので驚きました」。大嶺氏にとっては突然の出来事。動揺するのも当然だった。

「ロッテが嫌いだったわけじゃなく、違う球団が指名していても、浪人を選択する感じになっていたと思います」。もう1つ、“不運”だったのが伊志嶺吉盛監督がドラフト前日まで不在だったこと。伊志嶺監督には球団から事前に指名する連絡があった可能性はあるが「新チームの大会で沖縄本島にいたんですよ。それで監督と会うのがドラフト当日の朝。情報を共有できていなかったし、いろいろ重なり合っていました」と振り返った。

「気持ちの整理ができないというより、何も分からない状況でした。何を言っていいのかが分からなかったです。下手に変なことを言えば、多分(マスコミの)格好の餌食になっていたと思います。それが一番怖かったです」

戸惑う大嶺氏に代わり、伊志嶺監督が“防波堤”となって入団拒否の強い姿勢を示し、マスコミにも対応した。「あの時は監督があまり良くない態度をとっていた。今思えば、監督が意図して、僕から(マスコミなどの)目をそらさせようとしてくれていたのかなと思う部分はあります」。18歳には過酷な状況だったのは明らかである。

■変わった島民の反応「あの時は全く意味が分からなかった」

かたくなまでの姿勢には当然、理由がある。高校1年の秋、右肩を痛めてノースローが半年間続いた。「何度か野球をやめようかなって思うぐらい、投げられなくて本当にしんどかった時期。その時もソフトバンクの担当スカウトはグラウンドに足を運んでくれていました」。その姿は、復活を目指す中で勇気を与えてくれた。

「もう一回、試合で見てもらえるように頑張ろうという気持ちになれました」

長いリハビリを経て20メートルの距離でキャッチボールを再開。「たった20メートルの距離で、最初は20球しか投げられない。それでも、わざわざ見に来てくれたんです。復活していく過程の『最初を見る』というニュアンスのことを言っていました。それが大きかったです。その方がいる球団に行きたいと思いました。それで他の球団に行きたいと思うのは、僕は違うと思います」。担当スカウトの熱心な姿に心を動かされ、ソフトバンク入りを熱望するように至ったのである。

一度固まった決心は簡単には覆らない。もちろん、ロッテ側も諦めない。バレンタイン監督や瀬戸山隆三球団社長らフロント陣が何度も石垣島を訪れて交渉。翌2007年から石垣島で春季キャンプを開催する可能性を示すなど説得を続けるうちに、大嶺氏の周囲が入団を期待するムードに変わっていったのである。

「ロッテの瀬戸山社長や球団関係者が球場視察にも訪れて“石垣島でキャンプ”という見出しの記事が出ました。そこには小さく“あるかも”みたいな見出しもつけられていて……。でも、それで石垣島の人たちの対応が変わりました。『ロッテに行け!』という雰囲気になりましたね」

今まで目の前で見たことがないプロ野球キャンプが石垣島で行われるかもしれない。それを期待する島民がロッテ入りを熱望したのだ。「あの時は全く意味が分からなかったですけど、今だったらどれだけのお金が動くのかというのが理解できます。それもあって、僕は石垣島の人たちのために野球をやろうとは一切、思わなかったです。自分のためにやればいいんだと強く思いました」。18歳の心境は複雑だった。

「最後はどちらかというと(伊志嶺)監督が折れた感じでした。監督はいろいろ大変だったと思います」。自らの意思に反して、ドラフトから約2か月後の11月27日にロッテと契約。2007年からロッテは石垣島でキャンプを開催し、大嶺氏は故郷でプロ野球選手としての第一歩を踏み出した。

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Editorial Team