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「プロはまあ無理」からドラ1への変貌…元ロッテ右腕が振り返る高校時代

尾辻剛 Go Otsuji

「プロはまあ無理」からドラ1への変貌…元ロッテ右腕が振り返る高校時代 image

Go Otsuji

都内で飲食店を経営する元ロッテの大嶺氏

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■大嶺祐太氏、八重山商工入学時は直球の最速が120キロ

プロ野球はシーズンオフを迎え、各球団が新体制を発表するなど来季に向けて動き出している。選手の去就にも注目が集まる中、移籍する人もいれば、現場を離れて球団スタッフになる人もいる。さらには野球界とは別の道に進む人も多い。

2006年にドラフト1位指名を受けてロッテに入団した大嶺祐太投手は中日と2球団で合わせて16年間プレー。2022年の現役引退後は球界を離れ、東京都内で飲食店を経営している。「現役時代よりも今の方が楽しい」という大嶺氏が、初めてプロ入りを意識したのは高校時代。2006年に春夏連続で甲子園出場した八重山商工時代を振り返った。

石垣島で生まれ育った大嶺氏は小2で野球を始め、中学時代は硬式野球のポニーリーグでプレー。全国大会優勝と世界大会3位を経験し、八重山商工に進学した。ただ、入学当初は「プロに行けるイメージはあまり持っていませんでした」という。

当時、直球の球速は120キロ。「現実的に考えて、プロはまあ無理だなって思っていました」。ところが成長期の高校生は身長が伸びると同時に、きっかけ一つで大きく変わっていく。1年生の5月。ゴールデンウイークを利用して、チームは熊本に遠征した。

有明との練習試合。沖縄の興南でも監督を務めた敵将の比屋根吉信監督からの投球動作に関する助言がヒントになった。「ワンポイントアドバイスをもらって、球が20キロ近く速くなりました。プロのスカウトの方にも見に来ていただくようになり、そこから自分が思い描いているように大会ごとに少しずつ球速が上がっていきました」。それでもまだプロは遠い存在で「行けたらいいかなぁ、というぐらいの感じでした」と回顧する。

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■2006年に春夏連続で甲子園出場、一躍注目の選手に

まだ石垣島でキャンプが行われる前の時代で、ほとんどプロ野球に接する機会がなかった大嶺氏にとって憧れでしかなかった世界。そもそも、甲子園出場を目指していた理由も「プロがプレーしている球場で試合ができるからっていう目標でやっていました」という状況だった。

「もし予選(地方大会)を神宮やマリンスタジアムなどでできる環境にいたら、果たして甲子園を目指していたのかなって思います。最近になって考えると、なぜ目指していたのか分からない部分がありますね。もちろん、高校球児のみんなが目指しているところだから目指したっていうのも少なからずあったんじゃないかなとは思います」

そんな中で3年生となった2006年春、選抜大会に八重山商工は初出場。高岡商との1回戦で17奪三振を記録し、一躍脚光を浴びた。身長は184センチまで伸び、粗削りながらも150キロに迫る直球は魅力十分。一気にドラフト上位候補と騒がれるようになり「もしかしたら行けるんじゃないかな」と初めてプロ入りを意識した。

夏の甲子園にも出場し、石垣島は空前の大フィーバーに。ただ、当の本人は「現場にいたので、よく分かりませんでした」と言い「今年の夏、沖縄尚学が優勝して沖縄が盛り上がったのを見て、あの時の石垣島もこんな感じだったのかなとイメージしています。そういうことに立ち会えたらうれしいですよね」と続けた。

その夏の甲子園では最速151キロを計測。高校生と大学生・社会人で分離開催されていた当時のドラフト戦線で堂々の1位候補となった。「本当に指名されるのかなっていう不安はずっとありました。指名されなかったらどうしようって、ヒヤヒヤしていました」。そんな不安をよそに高校生ドラフトではソフトバンクとロッテが1位で競合。ロッテが交渉権を獲得し、離島のエースはプロの世界に飛び込んでいった。

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