12月3日のオーランド・マジック戦、ルーク・コーネットがブザーと同時にフランツ・バグナーのレイアップをブロックし、スパーズが2点リードで勝利を収めた瞬間は、彼のキャリアでも象徴的な瞬間だ。コーネットは両腕を天に掲げ、上を指さし、ビンス・カーターの象徴的な2000年ダンクコンテストのポーズを再現したのだ。
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— San Antonio Spurs (@spurs) December 4, 2025
チームメイトはその瞬間をプリントしたTシャツを作成し、誇らしげに着用した。このシャツはサンアントニオで最も売れた商品となり、誰もが欲しがるアイテムとなった。
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「Tシャツになるなんてプレッシャーだね」とコーネットは記者たちに語った。「トロイのヘレン(ギリシア神話に登場する絶世の美女)もこんな気持ちだったんだろうな」
コーネットの独特なユーモアセンス(ブレイク・グリフィンやジェイソン・テイタムらが「最も面白いチームメイト」と評している)は、ボストンとサンアントニオの両フランチャイズで彼を人気者にした。スパーズのヘッドコーチ、ミッチ・ジョンソンはスポーティング・ニュースに対し、コーネットがチームの良きリーダーであると述べ、「彼が軽やかに振る舞う姿は見ていて非常に楽しく、愉快だ」と語った。
コ―ネットはNBAでも随一のファンのお気に入り選手であるが、彼のキャリアは順風満帆ではなかった。NBAでの役割を確立するためには、どん底を経験し、バスケットボール選手としてのアイデンティを根底から変えなければならなかったのだ。
ヴァンダービルト大学で4年間プレーしたコーネットは、注目のドラフト候補だった。機動力は常に課題だったが、驚異的なブロック数を記録し、7フッターながらNCAAの3ポイント成功数記録を樹立。彼が目標としたブルック・ロペスの面影を垣間見せた。
「キャリア初期の目標の一つは、NBA最高のシューティングセンターになることだったよ」コーネットはスポーティング・ニュースに語った。
ドラフト外となった後、ニューヨーク・ニックスが彼にチャンスを与え、2ウェイ契約を結んだ。彼は限られた機会のなかで3Pシュート成功率38%を記録した。
シカゴ・ブルズはコ―ネットに注目し、ニックスから彼を引き抜き、2年間の保証付き契約を提示した。ジム・ボイレンHCは彼に大きな期待を寄せていた。ボイレンは、コーネットはロバート・オーリーを彷彿させる選手だと発言し、話題を呼んだ。
ブルズのファンはその比較を嘲笑した。コーネットは初年度終了時点で平均6.0得点、3Pシュート成功率28.7%の選手に過ぎなかった。とはいえ、彼のポテンシャルを考えれば、まったくの馬鹿げた比較というわけではなかった。
「ロバート・オーリーは偉大な選手で、僕のプレースタイルは彼に似ていた」とコーネットは語った。「当時は本当にキャリアのどん底で、とても辛い時期だった」
「自分は失敗していると感じていたんだ」
しかしブルズと複数年契約を結んだまさにそのタイミングで、コーネットの強みであった3Pシュートは完全に消え失せてしまった。彼は鼻を骨折し(ニックス時代には診断されていなかった)、最終的に手術を受ける羽目になった。この負傷は彼の呼吸を困難にした。また足首の負傷や様々な他の不調が、彼のシュートフォームを狂わせ続けた。
「正直なところ、何が原因かはよくわからない。でも動きや体の感覚がしっくりこなくて、シュートタッチも以前と違うんだ。一貫性を保てず、同じ動きが再現できなかった」とコーネットは当時を振り返った。
コーネットのブルズでの2年間の在籍は惨憺たる結果に終わった。3Pシュート成功率はわずか28%に留まり、ビッグマンのフットワークが生命線であるブリッツ主体のディフェンスに完全に馴染めなかった。
「僕たちは相手のターンオーバーを誘うようなディフェンスを目指していた。正直、そのスタイルは僕に合っていなかったと思う。そのスタイルで結果を出そうとするのは難しかった」
シカゴでの2年目半ば、彼はサラリー調整要員としてダニエル・タイスとのトレードでセルティックスに移籍した。出場機会はほとんどなく、その後も複数のチームを渡り歩いた。そしてセルティックス傘下のGリーグチームに落ち着いた。彼のNBAキャリアは首の皮一枚でつながっている状態であり、次なるブルック・ロペスなどというのは夢物語になりつつあった。
「病的なほど深刻に考えすぎて、周囲からのプレッシャーや期待も感じて、本来の自分を見失ってたんだ。シカゴへ移り、その後Gリーグへ行った時は、これが最後のチャンスだと思っていた。『ここで何かやってやるんだ』って具合にね」
コーネットは、まず彼の気さくな性格をより前面に出すことにした。
「以前とは違うアプローチで臨んだんだ。Gリーグの頃から、もっと楽しもうという姿勢が表に出てきた。自由で、平穏で、喜びに満ちたバスケができた。そういった変化は、自分自身やキャリアについて考えすぎないようにしたことから生まれたんだ」
コーネットは攻撃スタイルも変えた。それは、彼を象徴するスキルである3Pシュートを封印することを意味した。代わりにスクリーン、ゴール下へのロールイン、そして体格を生かしたゴール下でのフィニッシュに磨きをかけた。
「今でも昔のように3Pシュートを打てたらと思うよ」とコーネットは嘆いた。「でもチームが勝つために必要なことをするだけだ。そうなっただけのことさ」
コーネットに最後の変化をもたらしたのは、セルティックスのスタッフだった。彼らはコーネットを優れたリムプロテクターと評価し、ブルズ時代のようにペリメーターに留めるよりも、ヴァンダービルト大学時代やニックス時代に実践していたドロップディフェンスの方がはるかに適していると判断した。彼らはコーネットをリム近くに配置した。それ以来、彼の36分あたりのブロック数はNBAのトップ15を常に維持している。
攻撃面の変化は、目立ちにくいながらも確かに存在する。コーネットは泥臭いプレイを極めた。ボックスアウトでチームメイトのリバウンドを助ける。素晴らしいスクリーンをかけて、スパーズのガード陣のプレイを助ける。そしてチームを盛り上げるベンチでのリアクションは、リーグでも随一のものだ。
スパーズは今夏、コーネットに4年4100万ドルの契約を提示した。ボストンでの彼の貢献を評価してのものだった。だが、この動きに困惑したファンもいた。それはセルティックスでの彼の影響力ではなく、平均6.0得点という数字だけを見ていたからだ。
そうした疑いの目を払拭するのに時間はかからなかった。過去にはビクター・ウェンバンヤマがコートを離れるとスパーズは崩壊していた。今年はコーネットが有能な控えビッグマンとして機能していることで、ウェンバンヤマが欠場した試合でも9勝5敗を記録している。ダンクやレイアップ以外では依然として得点が少ないが、コート内外での彼の貢献がスパーズの勝利を支えている。
「成功と称賛を欲すれば、状況は悪くなる。良い成績を残せない時期は、本当に苦痛だった。その経験を経て、成功や称賛に執着しない、自分らしさを重視したアプローチを見つけることができたんだ」
現在のコーネットは、ありのままの自分に満足している。背番号7を選んだのは「ティム・ダンカンの3分の1くらいの選手になりたいから」と冗談を飛ばすほどである。
ブルック・ロペスになる夢は叶わなかったかもしれない。だが”ルーク・コーネット”になることは、この上ないプランBだったと言えるだろう。
原文:Luke Kornet found success by letting go: Inside Spurs big man's evolution away from 3-point specialist
抄訳:小野春稀(スポーティングニュース日本版)
