■BC埼玉・角晃多球団社長、東海大相模時代を振り返る
高校時代、甲子園出場は眼中になかった。元ロッテ内野手の角晃多氏はプロ野球独立リーグ、ルートインBCリーグの埼玉武蔵ヒートベアーズで球団社長を務めて5年目を迎えている。父は巨人のリリーフエースとして活躍した角盈男氏。次男である晃多氏は東海大学付属相模高校時代、父の背中を追い、プロ野球選手を目指して汗を流していた。
現役時代に新人王や最優秀救援投手のタイトルを獲得した父は身長183センチ。一方、晃多氏は「体はメッチャ小さいです」と野球選手としては小柄な168センチでプレーを続けた。
中学時代のケガが影響しているのかもしれない。右膝の前十字靭帯を断裂。成長期で手術は難しいとされたが、ある病院の医師から「手術は問題なくできる。多分、背が伸びても、あと5センチ以内だと思う」と言われて手術に踏み切った。同時に「ああ、僕の人生は170センチまでいかないな」と割り切ったという。
東海大相模に入学直後、再び右膝を手術。大きく出遅れながら、2年夏の神奈川大会では二塁のレギュラーに。秋の新チーム発足後は打線の中軸に定着した。
同学年には188センチの大田泰示(巨人-日本ハム-DeNA)ら大柄な選手が並び「周りがみんな大きいので、高校の時から小さかったです」と振り返る。ただ、体格のことで卑屈になることもなく、言い訳することもなかった。
「膝を手術したので、とんでもなく足が速いかと言われれば、そうでもない。体がデカいやつらより、どうやって正確に打つか、どうやったら同じぐらい飛ばせるかというのをずっと考えていました。やることは明確です。それだけをひたすら考えてバッティングをしていました」
目標であるプロ野球選手になるには周囲の大柄なライバルに勝たないといけない。「負けないようにというよりも、どうやればデカいやつらよりバッティングで目立てるかなということをずっと考えていた」と必死に打撃練習に取り組んだ。
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■初めて感じた重圧「いつもの打撃ができなかった」
その成果は最終学年となった2年秋から顕著に表れる。2年夏までは通算1本塁打だったが、4番に座った2年秋以降は35本塁打と爆発した。迎えた3年夏の神奈川大会は決勝戦に進出。慶応高との大一番は延長13回の熱戦の末に6-9で敗れて甲子園出場を逃した。
「今になってとっても反省しているんです。当時は自分がプロに行ければ、甲子園なんてどうでもいいって本気で思っていました。最後の大会は、自分が打っていたら甲子園に行けていたというシーンが何度かあった。その時、スタンドの『いけ~っ!』というプレッシャーがドカンと来て、いつも通りの打撃ができなかった自分がいたんです。それをメッチャ覚えています」
9、11回は3番・大田泰示が敬遠されて迎えたサヨナラの好機で投ゴロ。13回2死一、三塁では右飛に倒れて最後の打者となった。野球はメンタル面も結果に大きく影響するスポーツである。高校入学後、初めて感じた打席での重圧。いつもの正確で力強い打撃は影を潜めてしまった。
「甲子園に行くために練習していて、真剣に『みんなで行こうね』って思っていたら、打てていたと思っています。『自分さえプロに行ければいい』という感覚で、いつも『ここで打てばスカウトも見てくれる』ぐらいに思ってやっていたんです。でも最後は、そういう意識じゃないところで戦いだしちゃった。だから、自分の打撃ができなかったんだなと凄く感じています」
父に続いてほしい期待感。それだけ強かったプロ入りへの思い。「そっちにしか興味がなかったんです」と振り返り「それは凄い反省です」と繰り返した。
多くの高校球児が憧れを抱く甲子園。偉大な父を持つ晃多氏にとって当時はプロ入りの優先順位が高く、今となっては悔いが残る。ほろ苦い青春の思い出である。
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